②誠徳寺略伝_二.本尊と伝灯歴代住職
誠徳寺 略伝
其の二、本尊と伝灯歴代住職
誠徳寺の歴史
(海印山誠徳寺 略伝より「昭和15年刊、昭和45年刊」)
主に昭和45年刊行を記す。
二、本尊と伝灯歴代住職
「初代、大阿闍梨権大僧都全法上人大和尚 (1436~1514年)」
…初代神武天皇以後、105代の後柏原天皇
永正11年甲戌(1514年)10月14日寂 享年78歳
初代の神武天皇以後、103代の後花園天皇の寛正四癸未(1464年)の1月5日の夜、全法は夢を見た。西方に沈む夕日が輝き、その光明の中から阿弥陀如来が姿をあらわされた。全法は驚きのあまりすぐさま礼拝したてまつると、その仏の傍らから一人の僧侶(鯖江本山 誠照寺の第7代、秀応上人)があらわれた。その僧侶は全法を手間招きし、「おまえはこれから浄土真宗という易行の法門に入って念仏に勤めるのがよかろう」とお告げを述べられた。そしてみるみるうちに、2つの太陽となって目の前から姿を消した。全法は夢から覚め、不思議な思いをしたと寝床から立ち上がった時、すでにあくる6日の朝になっており、その日は二つの太陽が並んで出ていたという。
全法はこの不思議な出来事を思い返し、これこそ阿弥陀如来のお導きであったと有難く思いながら西の方角を目指して歩くうちに鯖江の本山、誠照寺へとたどり着いていた。さっそく秀応上人におめにかかられて、浄土真宗の易行易修、他力信心の本願について一つ一つ聴聞され、すぐさま本願他力の信心を獲得した。天台宗から改宗し秀応上人の弟子となり、自らの檀家衆を率いて浄土真宗に帰依し、寺号は誠徳寺のままとし、誠照寺の客末寺となって帰属した。それ以後はこの上ない他力信心の念仏者となって生涯をおくり、78歳にして念仏を称えながら眠るように浄土往生を遂げられた。
「第二代、道善 (1483~1562年)」
…第107代正親町天皇の時代。永禄五年壬戌 (1562年) 9月25日寂 79歳
「第三代、道空 (1533~1604年)」
…第108代後陽成天皇の時代。慶長九年甲辰(1604年)5月25日寂 71歳
「第四代、導宰 (1582~1653年)」
…第111代後光明天皇の時代。承応二年癸己(1653年)7月21日寂 71歳
【誠徳寺 御本尊、巣原村の阿弥陀仏と御花栃】
当寺、誠徳寺のご本尊の由来をたずねてみると、阿弥陀如来像は平家一族の守本尊であった。平家一族が隠遁のために西谷村へと持ち込み、道場に納めて日夜礼拝していた。巣原村(大野市 旧西谷村)の奥に在家という名の平家の村があり、そこには西ノ坊、東ノ坊という場所があった。何らかの理由が(雪崩か)あって、奥の在家は絶えてしまい(在家跡地を平家と呼ぶ)、そこにあったご本尊は巣原村の神社に長年安置されていた。
このご本尊である仏像は、聖徳太子の時代、唐の国より仏師が日本に来て帰化した者の末裔であった、安阿弥(あんなみ 快慶)というものが造られたものと伝わっており、容易に手に入るものではなかった。
正保か慶安のころ(1644~1652年)、盗賊のような者がこのご本尊を盗みだそうと試みたが、盗み出した途端、みるみると大きな岩のように重たくなり巣原の土地から持ち出すことが出来ず、川へと投げ去った。その夜、村人数名がこのような夢を見た。大橋の下にある川の中から阿弥陀如来が光明を放って現れ「速やかに水海の誠徳寺へ連れていきなさい」とのことであった。翌朝、村人たちは語り合って仏像を見つけ奉持し、誠徳寺へと向かった。
同じころ、誠徳寺の四代目住職、道宰も巣原村より一體の仏さまが御移りになるという夢を見た。「我は賀茂氏に因縁あつく、そなたはすぐさまここに来るべきである」と。
夢のお告げに従い巣原まで迎えに出ると、双方が道中で出会った。その場で恭しく栃の枝を手向けて礼拝読経を行い、導宰は仏像を預かって帰山した。
現在も巣原峠のふもとに釜谷(カマダニ)というところがある。そこには導宰が植えた古木の栃ノ木があり、全体が花木のように見えるため「御花栃」と言い伝えられている。根廻り1丈6尺(約4.85M)、高さ10間(約18.2M)、木枝の形が不思議で一杯の造花をみているようで、今もなお盛んに咲き誇っている。
無事に仏像を迎え入れた導宰であったが、彼には子供がなかった。そのため順応法師という平家出身の博学な僧がいたので、この僧を養子として迎え入れ寺院の後継者とした。そのとき、ご本尊が順応にこう告げられた。「我は賀茂氏に因縁深きゆえにこの土地にきた。しかしながらそなたは平家であり、異なる氏姓である。速やかにもとの平氏に帰るべきである。」と幾度となくお告げがあった。順応は確かにほかの氏姓からこの誠徳寺を継承することはできないと考え、仕方なく巣原村にご本尊を戻された。
けれども順応はふたたびご本尊を迎え入れることが本意であったため、それならばご本尊の由来の因縁を深くたずねてみようと誠徳寺を飛び出し、諸国を訪ね歩いた。加賀国(石川県)、越中(富山県)、越後(新潟県)とたずねまわった。
とうとう信濃(長野県)の善光寺にたどり着き参詣し、仏前にて夜通し参籠して、私の願い通り賀茂の門徒をお救いくださいと念じたところ、善光寺の阿弥陀如来からこのようなお告げがあった。
「そなたの心からの願い、誠に哀れみ深いがゆえに申しつける。すぐさま西方寺に行きなさい」との仏の勅命である。
順応は大変喜び西方寺に行き、住職である真誉和尚に会い、その先祖を訪ねてみると、清和天皇の後胤(こういん)である賀茂氏の姓であった。順応は驚いて、善光寺の如来から聞いたお告げを語った。実は真誉和尚も夢のお告げを聞いていた。これは誠に不思議なことである。また上野山(鯖江 誠照寺)の秀恵上人とはその昔、京都で学問を共にした仲であった。
明暦元年丁未(1655年)7月、こうした因縁が深いことから順応の勧めにしたがい真誉(第五代、愚暗)は誠徳寺にきて浄土真宗に帰依し、秀恵上人の直弟子となって誠徳寺を継承した。
しかしながら、真誉はすでに59歳という老体であった。再びご本尊を迎えこの寺院を護るためにも、後継者を強く望んだ。そんな中、福井の城主の臣下であった賀茂左兵衛の尉がおり、幸いにもそこに子供がいたので、その子を後の住職とするため国主に申し上げ養子として迎え入れることとした。
「第五代、愚暗 (1596~1664年)」
…第113代霊元天皇の時代。寛文四年甲辰(1664年) 3月25日寂 68歳
「第六代、誠了 (1641~1709年)」
…第114代東山天皇の時代。宝永六年己丑(1709年) 1月23日寂 68歳」
清和天皇から7代後、賀茂二郎義宗から9代目の孫である賀茂左兵衛の尉、義成の嫡男(長男)、俗名、六弥義純(ろくやよしずみ)という。愚暗という者の養子となり、出家得度をして剃髪し衣を着て秀誠上人の直弟子となり、ひとつの寺院をたまわり第6代、誠了と名乗り継承した。ときは元禄時代であり、再びご本尊から不思議な夢のお告げを賜り、巣原からお迎えして末永くご本尊として崇め奉ったのである。
「第七代、如寂 (1673~1728年)」
…秀如上人の直弟子。享保13年戌申(1728年) 8月18日 55歳
「第八代、如真 (1709~1784年)」
…如寂の第一子。慈光院と名乗った。秀如上人の直弟子。
梵鐘を鋳造(ちゅうぞう)した。天明4年申辰(1784年) 9月15日 75歳
「第九代、明鏡院釈心性 (17??~1803年)」
…享和3年(1803年) 9月5日寂 ??歳
「第十代、霊瑞院釈実応 (1757~1821年)」
…御堂開山。文政4年辛己(1821年) 3月9日寂 64歳。
「第十一代、清国院釈誠満法師 (1???~1831年)」
…天保2年辛卯(1831年) 3月28日寂 ??歳
「第十二代、御光院釈実円 (1790~1842年)」
…矢部の孫なり。天保13年壬寅(1842年) 10月26日寂 52歳
「第十三代、横超院釈観隆(不明)」
…安政6年己未(1859年) 10月3日寂 ??歳
「第十四代、示入院釈量達法師 (不明)」
…平泉寺村西念寺より入寺。明治27年総墓再建。明治33年(1900年) 10月23日寂 68歳
「第十五代、華厳院釈楞達(ロウダツ) ()」
…明治18年乙酉(1885年) 11月1日寂 23歳
「第十六代、真実院釈光闡(コウセン) ()」
…明治43年(1910年)宗祖650回忌。昭和15年(1940年) 5月29日寂 78歳
「第十七代、釈原俊 ()」
…明治21年生(1888年) 昭和21年(1946年)本堂消失。
昭和23年(1948年)仮御堂建立。
昭和26年(1951年)梵鐘再鋳造、御堂開山。
昭和40年(1965年)本堂落慶。宗祖700回忌大遠忌
昭和44年(1969年)総墓再建立
「第十八代、釈淳光 (1933~)」
…昭和8年生(1933年)。昭和26年(1951年)得度、18歳
以上。
誠徳寺略伝、昭和45年版参照。
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【2026年 令和8年 現在】
「第十七代、報徳院釈原俊法師 (1888~1973 昭和48年 76歳 5月2日往生)」
「第十八代、還海院釈淳光法師(1933~2017 平成29年 84歳 12月4日往生)」
「第十九代、釈龍誠 (1962~)」…当山誠徳寺 現住職
「第二十代、釈光徳 (1991~)」…当山誠徳寺 現副住職