③誠徳寺 御本尊_巣原村の阿弥陀仏と御花栃
【誠徳寺 御本尊、巣原村の阿弥陀仏と御花栃】
当寺、誠徳寺のご本尊の由来をたずねてみると、阿弥陀如来像は平家一族の守本尊であった。
平家一族が隠遁のために西谷村へと持ち込み、道場に納めて日夜礼拝していた。
巣原村(大野市 旧西谷村)の奥に在家という名の平家の村があり、そこには西ノ坊、東ノ坊という場所があった。
何らかの理由が(雪崩か)あって、奥の在家は絶えてしまい(在家跡地を平家と呼ぶ)、そこにあったご本尊は巣原村の神社に長年安置されていた。
このご本尊である仏像は、聖徳太子の時代、唐の国より仏師が日本に来て帰化した者の末裔であった、安阿弥(あんなみ 快慶)というものが造られたものと伝わっており、容易に手に入るものではなかった。
正保か慶安のころ(1644~1652年)、盗賊のような者がこのご本尊を盗みだそうと試みたが、盗み出した途端、みるみると大きな岩のように重たくなり巣原の土地から持ち出すことが出来ず、川へと投げ去った。
その夜、村人数名がこのような夢を見た。大橋の下にある川の中から阿弥陀如来が光明を放って現れ「速やかに水海の誠徳寺へ連れていきなさい」とのことであった。翌朝、村人たちは語り合って仏像を見つけ奉持し、誠徳寺へと向かった。
同じころ、誠徳寺の四代目住職、道宰も巣原村より一體の仏さまが御移りになるという夢を見た。「我は賀茂氏に因縁あつく、そなたはすぐさまここに来るべきである」と。
夢のお告げに従い巣原まで迎えに出ると、双方が道中で出会った。その場で恭しく栃の枝を手向けて礼拝読経を行い、導宰は仏像を預かって帰山した。
現在も巣原峠のふもとに釜谷(カマダニ)というところがある。そこには導宰が植えた古木の栃ノ木があり、全体が花木のように見えるため「御花栃」と言い伝えられている。根廻り1丈6尺(約4.85M)、高さ10間(約18.2M)、木枝の形が不思議で一杯の造花をみているようで、今もなお盛んに咲き誇っている。
無事に仏像を迎え入れた導宰であったが、彼には子供がなかった。そのため順応法師という平家出身の博学な僧がいたので、この僧を養子として迎え入れ寺院の後継者とした。そのとき、ご本尊が順応にこう告げられた。「我は賀茂氏に因縁深きゆえにこの土地にきた。しかしながらそなたは平家であり、異なる氏姓である。速やかにもとの平氏に帰るべきである。」と幾度となくお告げがあった。順応は確かにほかの氏姓からこの誠徳寺を継承することはできないと考え、仕方なく巣原村にご本尊を戻された。
けれども順応はふたたびご本尊を迎え入れることが本意であったため、それならばご本尊の由来の因縁を深くたずねてみようと誠徳寺を飛び出し、諸国を訪ね歩いた。加賀国(石川県)、越中(富山県)、越後(新潟県)とたずねまわった。
とうとう信濃(長野県)の善光寺にたどり着き参詣し、仏前にて夜通し参籠して、私の願い通り賀茂の門徒をお救いくださいと念じたところ、善光寺の阿弥陀如来からこのようなお告げがあった。
「そなたの心からの願い、誠に哀れみ深いがゆえに申しつける。すぐさま西方寺に行きなさい」との仏の勅命である。
順応は大変喜び西方寺に行き、住職である真誉和尚に会い、その先祖を訪ねてみると、清和天皇の後胤(こういん)である賀茂氏の姓であった。順応は驚いて、善光寺の如来から聞いたお告げを語った。実は真誉和尚も夢のお告げを聞いていた。これは誠に不思議なことである。また上野山(鯖江 誠照寺)の秀恵上人とはその昔、京都で学問を共にした仲であった。
明暦元年丁未(1655年)7月、こうした因縁が深いことから順応の勧めにしたがい真誉(第五代、愚暗)は誠徳寺にきて浄土真宗に帰依し、秀恵上人の直弟子となって誠徳寺を継承した。
しかしながら、真誉はすでに59歳という老体であった。再びご本尊を迎えこの寺院を護るためにも、後継者を強く望んだ。そんな中、福井の城主の臣下であった賀茂左兵衛の尉がおり、幸いにもそこに子供がいたので、その子を後の住職とするため国主に申し上げ養子として迎え入れることとした。